北海道を元気にするには?
 
 私は、政治や経済に疎(うと)いですが、小児科医として自分なりに考えてみました。
「会社が潰れても、個人は潰れない社会」というのを聞いたことがありますが、良い言葉だなあと思います。結局、一人ひとりが皆んな元気になれば良いわけです。
 とりわけ、子供達が元気になれば社会が明るくなりそうです。でも、親とか回りの大人が自信をもって働く姿が見ないと、子供は元気になれないように思います。現状では、大人がこの自信を失っています。私は、ここに根本的な問題を感じます。
 
 子供達が元気になるのに、あった方が良い条件がもう1つあります。自分達が役に立っているという実感です。それには、子供達に実行可能な目標や具体的な方向付けがある方が良いでしょう。大人達で共通の価値基準(目標)をしっかり立てて置くべきです。しかも、子供達にはっきりと納得できる形でです。
 子供達の将来を考えたものなら受け入れやすいですし、考えれば幾らでも共通の目標はできます。そのとき大切なのは、今の利害を忘れ、原点に返って目標を立て直すことです。
 
 確かに、考え方の多様化は危険な思想を蔓延させないためにも必要ですが、それが行きすぎると個々が自分達だけに通じる常識や法律があちこちにできてしまいます。それに従った行動を皆がすると無法状態にだってなりかねません。都会はこれに近い状態のように思います。
 さらに、自由やプライバシーの尊重が過ぎて、これを隠れ蓑にした無責任と不誠実行為の温床になっています。それが、大人が目標を見失う元凶のように思います。
甘い汁があれば吸いたいのが人情です。そういう気持ちを持たずに済むくらいまではオープンな社会にしたいものです。
 
 大人が成熟した議論を重ねて目標ができれば、その方向性に合う行動なら必ず褒めることが大切です。大人が、いつも見守っているというメッセージを送り続けることは、子供達には良い励みになるからです。
 しかし、良い気になりすぎて脱線することがあります。その時には、何故悪いかをしっかり説明できるように事前の用意もしておくべきです。つまり、子供達の将来を考えてしっかりした目標を立てることが、社会を元気にする出発点です。
 
 では、どんな目標が良いのか考えて見ます。最近の観光産業が軒並み失敗したのを見ていると、外への人気取りは止めて中の充実を計った方が良いだろうと思います。観光客や市場の嗜好を伺っていても、よっぽど用意周到にしないとすぐに飽きられ浮気されてしまいます。うまくやっても、他に真似されて霞んでしまいます。そのままにしておけば共倒れが関の山です。一時の流行に捕らわれて、地域が荒廃してしまった所は国の内外を問わずたくさんあります。
 ですから、自分達の地域で何が大切なのか何を残し何を育てて行くのか、将来に誇りと自信を持てるシンボルは何かなどについて、もっと長い目で考えるべきだと思います。例えば、食べ物なら、地域の特産物を使って、そこに住む人の味覚で一番美味しいものを選ぶことです。場合によっては、最高のシェフや技術者をヘッドハンティングして、自分達の味覚にマッチした料理や加工品を開発するのも良いでしょう。ちょっと極端かもしれませんが、自然条件が厳しい所なら、お互いに助け合う暖かい思いやりをシンボルにしても町起こしにできるでしょう。今は、それが一番たりないのですから。
 しかし、何だって過ぎたるは及ばざるが如しです。嗜好性も強すぎては行けません。健康で持続可能な所までに留めるべきです。それぞれが自分の生活の基盤を整えた上で、町興しを充実させるのが賢明です。
 
 また、日本人はここしばらく金儲けの方向性で目標設定してきましたが、これは行き着く所まで行った後という認識が必要です。確かに、金は必要ですが、ありすぎると、ろくなことを考えないようです。(半分以上は、僻(ひが)みですが)
 仮に、今より少し経済発展があっても、今とのギャップはそう大きくはないでしょう。努力の成果が実感できない目標は長続きしません。それより、これまで経済成長一本槍の陰に隠されて軽視されてきた弊害や金銭で計れない財産に目を向けるべきでしょう。
これなら、努力しただけの達成感は味わえます。
 そう考えると、北海道は宝の山かも知れません。地域で守るべき有形無形の財産、未来志向の目標、環境問題、子育てなどなどたくさんあるでしょう。目標を共有できれば、しばらく元気でいられます。そして、目標達成前に新たな目標の準備が完了していれば、ずっと元気でいられるかも知れません。子供達の未来を考えることを忘れないなら、きっと受け入れられやすい目標になります。そんな目標を、地域地域で探して欲しいと思います。
 
 さて、私は札幌に住んでいますが、札幌でやってみたいことがあります。それは、地域の老若の良好なコミュニケーションです。道路で会ったら挨拶し合える老人と子供達の関係を築きたいのです。
 その手段として、例えば、小学校に近くの現役を退いた大先輩達(お年寄り)を、先生として学校に送り込めないかということです。それには、お年寄りに先生としての心構えを約束してもらう必要があります。先生と云っても、教壇に立つ先生ではでなくて、畑で一緒に土をいじり作物を育てる先生を養成して欲しいのです。そして、畑が教室になる時間をつくるわけです。その中で、学校の先生には、地域の先生(お年寄り)と生徒がより良い関係をつくるように橋渡役をしてもらうことと、調べ学習の手伝い(情報提供)をしてもらったら良いのではないかと思います。どうでしょうか?
 これに近いことは、美唄の今橋さんの所もですが、廻りの市町村でやっている所があるそうです。札幌でも、あるかも知れません。私は、札幌のような都会にこそこんな関係がたくさん必要に思うのです。都会では、行きすぎた自由の中で人恋しさが増しています。札幌に田舎の人のつながりを求めてみたいのです。
 
 私達が子供の頃には、生活が不便で仕事がたくさんありました。誰かが少しでも手伝ってくれると大助かりで大人が心から感謝できました。機械化が進んでいませんでしたから、手伝いも単純なものだったからかも知れません。理由はどうあれ、あの時代には意識せずに感謝の気持ちを表せたのです。それが、子供達にとってどれ程大きな財産になったか計り知れません。
 しかし、今は便利な世の中です。自分の存在感を感じるという財産を与えるには、不便な状態にして仕事を作ってでも惜しみない賞賛の言葉をかけるようにするしかありません。
 
 もうひとつ、私達が自分の子供に厳しいのは、どこかで子供に対して欲張りな感情があるからです。これは、生物に備わった当り前の欲望ですから仕方ないのですが、子供達にはたいへんな重荷であり迷惑です。できれば、地域の子供達を含めて、各人の適性を見付けて、じっくりと社会全体で育てるという発想を持ちたいものです。我が子を子供達の一人として、大人の一人の一人としての貴方が客観的に見れたら、子供達はずっと伸び伸びと力を発揮できるのではないでしょうか?
 
 北海道を元気にするということを考えていたら、こんなことが頭に浮かびました。
政治や経済はどうするんだと言われれば、私には答えはありません。しかし、医療費だけが優良産業の国なんて洒落にもなりません。健康があれば太平洋戦争の後のように這い上がれもしましょうが、いざ頑張ろうとしたときに体が動かないのではどうにもなりません。 私達が子供達に絶対に残さなくてはいけないのは、健康な身体と頑張りさえすれば何とかできるだけの環境ではないでしょうか?一時に蓄えは必要でも、それ以上はむしろ子供達を駄目にしないか心配です。喉が乾けば水が美味しいですし、お腹が空いてご飯も美味しく食べられます。子供は、外で遊ぶと元気になります。安全な遊び場や安全で美味しい水と食べ物を確保する、それが大人の一番大切な務めだと思います。
 
 遠くに運ぶということは、交通機関を使うことになります。当然、排気ガスやエネルギーの消費で、環境の負荷になるわけです。輸送に時間がかかれば、多くの食品で栄養価が下がります。特に、野菜などはその傾向がつよいのですから、地産地消は重要な意味を持ちます。できれば、特産物を利用して、その土地の人達の味覚に合った加工品も開発して欲しいと思います。
 これは、余談になりますが、その地域の子供達がいくら食べても飽きない一番美味しいと感じる味付けにまとめあげて欲しいのです。その子達がどこへ行っても、私が故郷の味と自信をもって云える物を作り上げて下さい。最高の技術者を集めてして下さい。商品開発に、都会の消費者の声を集める前に、地域の子供達の味覚で確かめるべきだと思います。お金も大切でしょうが、将来を担う子供達が、都会に出てたくさんの知識と技術を得て、故郷のために戻ってくるには、その方がずっと大切だと思うのです。これは、お金では買えない、貴重な財産になるでしょう。そこでしか作れない味、それは、その地の特産品を生かした加工品であって欲しいと思います。
 
 また、たくさんの手を介せば、それだけ病原体が混入する機会が増えます。時間がかかれば病原体が増える可能性が増します(遠くへ運ばなくても、大量に調理するときなどには、同じように長時間放置されることがあります)。途中で、執拗に殺菌しても、すでに菌から出された毒素には効果がありません。雪印の場合がその典型例です。新しい手法では、正に非の打ち所が無いように見えても、重大な欠陥が隠れていることがしばしばです。 この点、伝統的な作り方には、このリスクに長い機関の検証という篩(ふるい)がかかっていますので、安全性が高まっています。新しい手法を摸索するにしても、伝統的な作り方に隠された奥深い工夫の意味を見極めて応用するなら、ずっと危険を避けられると思います。
 現在、安上がりに食中毒を防ぐために、抗菌効果のある添加物がよく使われているようです。売る側にすれば、食中毒による営業停止は死活問題になりますから当然でしょう。でも、私は、添加物まみれの食品を、販売したり子供達の給食として出したりすること自体を、みんなの総意で止めるべきだと考えます。
 
 現代社会では、プライバシーを重要視する余り、却って勝手な憶測や解釈が膨らんで、理解し合えなくなっていないでしょうか? さらには、プライバシーや企業秘密の名の下に、だましや不正がはびこる温床ができているように思います。自らオープンにし嘘の無い説明をしたら、多少の問題があっても、まず説明したことを評価する社会環境が必要だと感じます。自分の間違いに気付いたら、目上の人であってもプライドに固執せず、訂正したり素直に謝りやすい雰囲気も欲しいものです。
 
 現代の学校教育では、どの教科にも意欲や興味をもてない子供達が少なくないようです(そんな子供達が、興味を持って行動し、それが自信を持った大人になるような原動力が欲しいと思います)。大人でも子供でも、多くが生命(いのち)を育むことに興味をもちます。そして、作物を育てる農には、多様な能力を引き出す教育力があります。閉じこもりから解放するきっかけになった例もあります。自然の中で発見した物から新鮮な感動や様々な問いかけがあります。
 もうひとつ期待したいのは、経験豊かな先輩達の知恵を評価できて、心からの尊敬心を養うことです。その土地の自然のルールは、そこに住む人には理解されやすいでしょうから、共通の価値観や社会ルールを生み出せると思います。農は、現代教育に欠落している、共生する力、譲歩し合う心、ほどほど(中庸)の大切さを学習するのに絶好の教材だと、私は考えます。